2017年11月12日日曜日

なぜ本書のテキストを信頼することができるのか、その理由を知りたい(【書評】『これからの日本、これからの教育』)

本書は実に奇妙な読後感を与える一冊であった。内容的には共感できる点は少なくない。森友、加計学園問題への追求の必要性(様々な懸念や疑惑、課題を検討、検証するのは野党の存在理由でもあり、チェック機能が働かない政治が弛緩しがちなことは歴史が物語るとおりでもある)、新自由主義的な教育と社会への警鐘、権限が集中した官邸と特区行政の透明性の向上等である。ただし、これらのテキストが本書の筆者のひとり前川氏の口から発せられるとき、どのように本書を受け取るべきか躊躇せざるをえない。

教育行政、政権を痛烈に批判する前川氏は、本書冒頭で自身の不正を認め謝罪する。文科省の報告書もそのことをものがたっている。本件はほぼ事実と見なしてよいだろう。

文科省『文部科学省における再就職等問題に係る調査報告(最終まとめ)』(PDF)
http://www.mext.go.jp/component/a_menu/other/detail/__icsFiles/afieldfile/2017/04/19/1382987_04.pdf

積極的にか、消極的にかは不明だが少なくとも主体的に文科省の不正に関わったとされる前川氏があっさりと謝罪し、教育行政への問題意識を提示し不透明な政権批判を行うとき、読者はそれをなぜ信頼することができのか、そのまま信頼して問題はないのだろうか。あるのかもしれないし、ないのかもしれない。当然、過ちを悔いて、善き生を生きるということはありうるからだ。ただし、本書では不正の事実と謝罪が言及されるのみで、過程や動機、それらが十分超克されているかいなかについての記述が乏しい。 本書では冒頭で「現職時代にはいえないことがあり、現職を退いたいまだからこそ言えることがある」と説明される。しかし森友、加計学園問題は現状疑惑にとどまっている一方で、前川氏の不正は事実認定され、本人も認めている。比較すると「なぜ、自ら不正に関わっていた人物のしかも最後に国家公務員として使えたときと同一政権に対する批判を、我々はなぜ文字通り真に受けることができるのか」という疑問は解消されないままである。

前川氏と面識はないが共通の知人が複数いるので伝え聞くように、またときにメディアが報じるようにむろん「良い人」なのかもしれないが、そうだとすれば、なぜその「良い人」が不正に携わったのだろうか。そして退職後、別の不正を告発するのだろうか。本書ではこれらの事情や理由が説明されないままである。説明したくないし、説明できない事情があるのかもしれないが、現在、もっぱら前川氏が注力する行政不正の告発という問題の性質を鑑みても、筆者は大変気になるところである。

公平を期すために言及しておくと、筆者はもうひとりの著者寺脇さんと10年近い親交がある。必ずしも、政治観、政策観が合致するわけではないが、本書が寺脇さんひとりの手によって書かれたものだとしたら、寺脇さんらしい著作として受け取ることができたと思う。だが、前川氏が加わったことで本書をどう受け取ればよいのか正直、困惑している(余談のように付け加えておくと、本書の構成も奇妙だ。本書の著者は「前川/寺脇」となっているが、寺脇さんが全体にわたって議論を主導して、それに前川氏が応じているように読めるからだ。障害者教育や教育無償化問題などの論点については前川氏がリードしている)。

その意味でいうと、最近、前川氏の露出が増えている。主にリベラル系のメディアが前川氏を登用していると言い換えてもよいかもしれない。

加計問題:「認可すべきではない」前川氏が疑問呈す - 毎日新聞
https://mainichi.jp/articles/20171111/k00/00m/040/101000c

マスメディアの担当者たちはここまで記してきたような信頼性の問題を解決できているのだろうか。少なくとも筆者は本書の記述のみでは解決できないように感じたし、本書の記述をどのように受け取るべきなのかいまだに葛藤を隠すことができずにいる。