2016年2月8日月曜日

現代の「18歳選挙権」用選挙教育教材と『民主主義』


先日、幻冬舎新書として、かつての1948年から1953年まで、実際に用いられた中学、高校教科書『民主主義』を、『民主主義 〈一九四八‐五三〉中学・高校社会科教科書エッセンス復刻版』として復刊した。関連して、2つのエントリを書いた。
『民主主義 〈一九四八‐五三〉中学・高校社会科教科書エッセンス復刻版』の現代における批評性(西田亮介)- Y!ニュース
「民主主義の共通感覚」と『民主主義』--かつての中学、高校教科書『民主主義』復刊に寄せて(西田亮介)- Y!ニュース
この3本目のエントリで書いてみたいのは、現代の選挙教育教材と『民主主義』の簡単な比較をしてみたい。両者はどう違うのだろうか。すでに各所で報道されているように2015年の公職選挙法改正によって、投票年齢が18歳以上に引き下げられた(通称、「18歳選挙権」。ただし、2016年6月19日施行なので、それ以前に衆院の解散などで国政選挙が実施された場合は、適用されない)。それにあわせて、総務省と文科省が選挙教育用教材を制作し配布している。
総務省|高校生向け副教材「私たちが拓く日本の未来」について
大別すると、解説編と実践編、参考編という3つのパートからなり、104ページで構成されている。このテキストは、日本の選挙制度の仕組みや議員の役割等々の知識を中心に端的にまとまっている。今回復刊した抄録版でさえ、解説等々含め254ページに及ぶ『民主主義』とは分量が相当程度異なっている。全体像については、径書房版を手にとって見ればわかるが、相当に分厚い。『私たちが拓く日本の未来』は公民や政治経済など、各所に断片的に存在している基礎的な選挙の知識を必要にして十分な内容をコンパクトにまとめている。そのうえで、模擬選挙など最近トレンドにもなっている実践的な演習の方法について説明している。
報道などでは、このテキストの制作をもって、「日本でも市民性教育が始まった」という趣旨の報道がなされているが、それは間違いであるというのが、筆者の認識である。というのも、その利活用は教育現場に委ねられているからだ。つまり、104ページの内容を消化するのにどれくらい必要かというのは議論が必要だが、1回や2回の授業でその内容を十分に消化するのは困難であるということについては同意を得られるだろう。せめて半期程度の授業時間を割く必要があるのではないかという気がする。ただし、正式な科目として位置づけられているわけではないから、それほど多くの授業回数を割くというのは現実的ではない。受験ともあまり関係しない内容である。報道で取り上げられるような、一部の先進的な学校はよいが、全体でみれば、どの程度教育の過程に取り入れられ、消化されるかは未知数というほかない。
それでは、正式な必修科目化されるのはいつのことなのだろうか。現在議論されているのは、2022年度からである。高校に「公共」「歴史総合」(仮称)が必修科目とすることが議論されている。「公共」では、政治参加、社会保障、契約、家族制度、雇用、消費行動等を学習予定で、「歴史総合」では日本史と世界史の近現代部分を中心に学習するということのようだ。ということは、日本では「市民性教育」の実施に先行して「18歳選挙権」が実施されるというのが本当のところである。
これとくらべると、『民主主義』はいかにも分厚く、内容も、民主主義の歴史、各国の民主制の実態、憲法、女性参政権、プロパガンダ等々と幅が広い。簡潔さということでは、『私たちが拓く日本の未来』の後塵を拝するというほかない。ただし、現代の、世界における市民性教育は、アイデンティティや政治的統合と切り離して考えることは困難である。EU統合過程における、EU市民としてのアイデンティティ形成などを例に挙げることができる。『民主主義』は制作の背景にGHQやCIEによる民主主義の普及啓発の意図があったことは事実だが、その制作過程では、法哲学者尾高朝雄ら、日本の知識人らが相当程度自由に筆を振るっている。ある意味では、日本人がもっとも真剣に民主主義に向き合い/向き合わざるをえなかった時代に、当時の知識人らがどのような筆致をもって「民主主義」を伝えようとしたかという痕跡を、時代状況や執筆の歴史的経緯などとあわせて、その筆致を素材に議論して学ぶことができうるだろう。政治と教育の中立が厳格化された現代において、こうしたテキストを制作することは困難と思われるが、前述の『私たちが拓く日本の未来』が政治の「情と理」のうち、後者に特化していると捉えるなら、前者を議論する補助線になりうるだろう。
下記の版元の幻冬舎のサイトで冒頭の部分を読むことができる。ぜひ一度、目を通してみてほしい。
西田亮介 民主主義は、みんなの心の中にある<終戦直後の社会科教科書『民主主義』が熱い!>幻冬舎