2015年6月26日金曜日

「学び続けざるをえない社会」時代のキャリア形成――『AERA』と『週刊東洋経済』の学習、大学特集から

今週の『AERA』と『週刊東洋経済』が、前者は「学習社会」(!)の到来と今後のキャリア形成について、後者は早慶MARCH特集を組んでいた。ビジネス誌にとって、いわゆる「教育モノ」「受験モノ」企画は、安定した、季節の風物詩という側面があることは否めない。だが両者をあわせて読むと、筆者も含めた若年世代にとっては、自分と家族に必要な、教育投資とリスクが増大するという意味では必ずしも喜ばしいものともいえない、「学び続けざるをえない社会」像が見えてくる。
『AERA』誌の企画は、東大のi.schoolとのコラボレーションによるものだった。企画は、経営破綻したJALの社員たちの「その後」を描くところから始まる。こうした破綻した大企業や社員のその後を描くのは、経済ノンフィクションの定番でもある。だが、このJALの記事が興味深いのは、パイロットや客室乗務員という一般的なサラリーパーソンと比べても専門性が高く、またその専門職を希望する人が多い職種を対象にしていたところが、少々違うところである。経営破綻したJALでは、パイロットや客室乗務員という職業でさえ、事実上のリストラを迫られたという。その140人の中から、4人の「成功談」と「学び直し」を端緒に、現代日本の「学習社会」化と「学び直し」の必要性を主張する。
『週刊東洋経済』の企画は、早稲田、慶應をはじめとする「早慶MARCH」に注目している。記事いわく、東大の学部出身者は毎年1000人程度だが、早慶MARCHは4万5千人程度であり、「規模がまるで違う」という。この「規模」という切り口は、ある意味では教育に対するビジネスライクな眼差しであり、経済誌的な視点なのかもしれない。L型G型論争など、最近の巷の大学論との相性も良い。同誌の企画は、最近の受験業界の傾向として人口減少で競争圧力が減り浪人してまで上位校を目指さなくなったこと、「早慶MARCH」への進学者に占める首都圏出身者の割合が増えていること、かつて鳴り物入りで導入されたSFCや国際系学部の停滞などが紹介される。もうひとつ、東京と関西を行ったり来たりしながら大学教員をやっている身には、「採用担当者座談会」企画の以下の記述が興味深かった。
いろいろなことの経験値が、首都圏の学生は関西の学生に比べてずっと高い。東京ではTOEIC700点なんてのは当たり前で、留学経験者もざら。大学をまたいだ学生団体やNPOの活動も活発で、学生のうちからさまざまな経験を積んでいる。面接の話題がアルバイト経験くらいしかない関西の学生は、どうしても見劣りする。
大学の立地は重要ですよ。大阪はだんだん産業集積が失われ、ただの地方都市になってきている。関西の学生は、自分たちに集まる情報が東京よりずっと少ないことを知っておかないといけない。
むろん雑誌特集が煽り気味の姿勢で作られていることは承知しているし、両雑誌の企画が物議を醸したことは過去にもいろいろあった。だが、それらを踏まえても、同じ週の両誌の特集は、社会におけるリスクの配置が変化していること、その変化と既存の大学教育や学生の認識が合致しないことを、それぞれ別の角度から提示していると捉えることもでき、少々興味深く読み比べてしまった。
社会や労働市場、教育の変化がどこへ向かっているのか予見することは難しい。だが、だからこそ「他人や先輩と同じで良い」という同調圧力の危険さを読み取ることはできるだろう。ちょうど『AERA』誌の小島慶子氏の連載が、教育社会学者の本田由紀先生との対談で、そこでは「柔軟な専門性」がキーワードとして取り上げられている。
専門性を身につけ、その使い方を日々モニタリングし、さらに時にはそれらを捨てて、またゼロから別の専門性を身につける・・・そんな「学び続けざるをえない社会」像が垣間見える。冒頭にも述べたが、「他人や先輩と同じ」という長く根付いたラクな方法が否定され、教育投資とリスクが増大し、リターンは不透明という意味で、「学び続けざるをえない社会」像が見えてくる。ウラを返せば、「ワクワク」というような形容詞で表現される社会像かもしれないが、常に主体性とコスト計算、投資を要求されるという意味では負担感は高い。それでも、学び続けるか、労働市場からの退出かという選択肢ならば、前者を選ぶほかないような気もする。
奇しくも正午のニュースが、東芝が不正会計で今期の決算を公開できないというニュースを報じている。およそ15年前にも、山一證券、北海道拓殖銀行等々、当時の安定企業が相次いで破綻したことがあった。そのときでさえまだ日本の企業社会にはまだ余裕がある気がしたものだし、「生涯学習」という言葉も流行で幕を閉じた。さて、今回も、いっときの流行り病で済むものなのかどうか・・・