2013年3月9日土曜日

「自律」の理想をどのように教育に導入するのか――「揺さぶり」系のキャリアプログラムの提案を受けて

先日とある人材系企業の人と話をする機会があって、それ以来「自律」について考えている。

なんでも近年、人材開発のスキームとしてマズローの欲求5段階説に則った(?)プログラムが流行っているそうだ。「マズローの欲求5段階説」とは、人間の欲望の順序のことで、彼によれば「生理的欲求」「安全の欲求」「所属と愛の欲求」「承認の欲求」「自己実現の欲求」という順番で「人間的な」欲望を志向するようになる。

この原理を逆手にとって、というべきか、たとえば大学生の就職活動や、年配者の転職活動において、需要とかけ離れた、高い(ときに高すぎる)理想を「諦め」させたり、真剣に就職活動に向きあわせたりするのに、いわゆる「安全の欲求」など、マズローの欲求5段階説では低次に位置づけられる欲求を「揺さぶる」のだそうだ。

どのように「揺さぶる」のかというと、「挫折の体験」を徹底的に導入するらしい。結果として人は素直に「現実」を見るようになるというのが「理屈」らしい。全体的に心理学のバックグラウンドがある(?)というのがいろいろな訴求力の源泉にもなっているようだ。それがどこまで真実かはぼくにはよくわからないが、学部生向けのプログラムでは一定の「高い成果」を挙げているのだそうだ。とはいえ、一定程度の割合で、抑鬱症状をきたしたりするので、カウンセリング等とセットにしたりするのだそうだ。

ぼくの業務のエフォートでは大学院、とくに博士課程修了者のキャリアパスとキャリアパスプログラムの開拓が大きな割合を占めているが、この分野にこういったキャリア開発のプログラムをアレンジして導入しませんかというのが彼の提案だった。

残念ながらというべきか、ぼくは即座にお断りした。持ち帰り検討する必要もないとそのときは思った。大学院という場所の理念とそぐわないと思ったからだ。一部の専門職大学院は少し違うのかもしれないが、大学院というのは一応建前でも新しい価値を創出すべき場所で、大学院生はそういった、理想をもった人材であるべきだと思ったからだ。

とはいえ、どこか後ろ髪を惹かれる部分がなかったかと言われればウソになる。なぜかといえば、確かに自分の過去の経験を振り返ってみても、追い込まれて発動する「火事場の馬鹿力」は重要なきっかけだったと思うからだ。修士の院生になって研究時間を伸ばさざるをえず収入が激減したとき、博士1年&非常勤助教の任期の終わり間際で、突如内定と思われていたキャリアパスがポシャったとき、確かにそれらの問題を打破する方法を必死で考えた。前者ではワリのいい調査系バイトをもらったり、最終的にはデータ分析系の研究テーマに見切りをつけ、後者では公的機関の調査部門に「就職する」という、博士院生としてはなかなか例がないのではないかという選択をした(ただし、これらが「正解」だったのかはよくわからない。とはいえ、今のところぼくのキャリアはこれらの経験なしに語ることはできない、と思っている)。

こういった誰しもあるであろう「火事場の馬鹿力」の記憶が、先のような「揺さぶり」系のプログラムを肯定的に評価してしまうのではないかと思った。だが、よく考えてみると、火事場の馬鹿力と計算された「揺さぶり系」プログラムには自律という点で大きな差がある。火事場の馬鹿力は確かに状況は追い込まれているが、抜け出す方法を考えているのは自分だ。他方、「揺さぶり系」プログラムは「追い込まれている」という状況認識から、「自分の価値を見切る」「低い条件に納得する」といった「気付きの方向性」まで高度にデザインされており、自律的とはまったくいえない。

しかし自律していないから、「揺さぶり系」プログラムは意味が無い、とも言い切れない。というのも、自律性を指摘した途端に、「自律はどうやって獲得するのか」「自律できていない人はどうするのだ?」という問題が惹起するからだ。現在では大学院でさえ、これらの問題を避けては通れない。残念ながら、この問題に明確に答えは出せてはいない。それでいて、大学院という場所に揺さぶり系プログラムの提案を断ったことには後悔していない(今のところ)。歯切れが悪いけれど、この問題をどのように調停するか、ということを考えることに、大学院のキャリアパス、いや大学生も含めたキャリアパスの問題解決のヒントがあるような気がしている。